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【『杉原千畝・美談』の真相は?】

 戦前、日本の外交官でリトアニア領事代理などを務めた杉原千畝(ちうね、通称・センポ)が、ナチスの迫害から逃れたユダヤ難民に通過査証(ビザ)を発給し、多数の難民の命を救った。しかし、此の行為は外務省の意向に反しており、後、杉原は日本政府に処罰されたとなっている。
 そもそも、そうしたビザの発給は可能なのだろうか。ビザは上陸地・日本で、外務省が管理する発行番号と照合するからそうした発給は不可能だろう。
 調べて見ると、流布している『杉原美談』には、史実の歪曲や隠蔽などがあり、杉原個人にも驚くような過去があることが分かった。そしてこの件に関し、イスラエルの研究者による、以下の様な重要な情報がある。

 その情報によると、杉原のビザの発給は外務省の許可を得ていたという。現に、彼はその後1944年、処罰どころか勲五等に叙せられ出世している。
 その2年前、樋口季一郎・陸軍中将らが2万人に上る大規模なユダヤ人の救出に成功しており、世界ユダヤ協会から表彰されている。一方、事務方の杉原は表彰されていない。
 日露戦争時、米国のユダヤ金融家のシフ氏が日本の戦時外債を購入し、戦費調達に協力してくれた事から、日本軍部はユダヤ人に深く恩義を感じていたから恩返しとして、ユダヤ人の救出をしたのだろう。

 1939年、独ソのポーランド侵略・分割が発生し、独ソの秘密警察によって迫害されたポーランドのユダヤ人は、隣国のリトアニアに逃亡し、リトアニアの日本領事館に押し寄せたのである。
 1940年7月、驚いた杉原が外務省に訓令を仰いだところ、外務省は直ぐにビザの発給を許可した。この訓令は日本の外務省に記録が残っている。
 ビザの発給は9月上旬、杉原が領事館を退去するまで続き、発行記録によれば、約1,500通のビザを発給している。
 杉原はリトアニア退去後には昇格し、1944年には勲五等に叙せられている。つまりビザの発給で、処罰など全く受けていない事が分かる。
 杉原夫妻は1944年、ブルガリアでソ連軍に逮捕された。しかし杉原夫婦は、異例にも2年で帰国し1947年、外務省に復職している。
 GHQは1947年、外交機能喪失により外務省の職員700人を、杉原を含めて解雇した。杉原は正規の退職金、年金をもらっているから処罰による退職ではない。
 杉原はその後65~75歳までソ連KGB管理下のモスクワに単身赴任し、日本商社の駐在所長を務めた。彼の元同僚によると、ユダヤ人救出の話は一切せず、口の堅い人だったという。

 イスラエルの研究者によると、杉原は満洲時代セルゲイ・パブロビッチというロシア名を持ち、10年間もロシア系の女性クラウディアと結婚していた。そして外務省に入る前に離婚しているため、幸子夫人は後妻である。
 イスラエルの歴史学者ベン=アミー・シロニー氏(勲二等瑞宝章受章)は、杉原が戦前からのソ連のスパイであった可能性を示唆している。そうであったなら、戦前のソ連側による異例の杉原のモスクワ日本大使館勤務拒否も納得できる。戦後杉原は、モスクワでソ連に監視されていた可能性がある。
 なおユダヤ人側としては同胞が助かったことが重要なので、杉原がソ連のスパイであったかどうかは、関係ないという。
(敬称略)


★iRONNA(オピニオン・サイト)『日本のシンドラー、杉原千畝「美談」に隠された真実』(東京近代史研究所代表・落合道夫氏)、(2019/08/09)、より.
★上記へのリンク https://ironna.jp/article/13140

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