【感情の赴くまま】
現存していた給料袋.
戦時中、朝鮮半島から“内地”に渡った男性が、勤務先の造船所(兵庫県)から貰った給料袋を、遺族が今も大切に保管している。
その給料袋には、半島出身労働者にもキチンと給料が支払われていた事が記されている。当時の半島出身労働者の待遇を物語る資料だ
父親が遺した給料袋を手にするのは、元在日2世で一昨年、日本に帰化した清本清一さん(76歳、兵庫県相生市在住)。
遺された給料袋は、戦時中、父が同市内にある播磨造船所に勤務していた際の、昭和17年1月から終戦後の20年10月までのもの。
その明細によると、『出勤工賃・歩増金・残業割増工賃・夜勤手当・精勤手当・物価手当・家族手当』などが支払われ、また、控除金として、『第一貯金・退職積立金・国民貯金・共済組合・健康保険・社宅・貸金・年金保険・所得税』などの記載もある。
手取り額は多い月で200円を超える。終戦を迎えた20年8月でも54円18銭の手取りがあり、更に同月、『徴用満期慰労金』も支払われていた。
相生市史によると、昭和初期の大きな農家の年収が624円89銭で、清水氏の20年8月の手取りを単純に12倍(年収換算)すると、ほぼ同額となる。
徴用工(応徴士).というもの.
清本さんの父親は朝鮮半島の出身で、自らの意思で昭和11年に来日し、17年に播磨造船所入りした。
当時、播磨造船所は活況を呈しており、重要産業の労働力確保を目的として、14年に制定された『国民徴用令』に基づく指定工場となり、全従業員が徴用に応じた『応徴士』、いわゆる徴用工となった。半島出身者だけが徴用工だった訳ではない。
また、国民徴用令が朝鮮半島に適用された19年8月以前については、清本さんの父も含め、基本的には自由意思に基づく就労だった。むしろ、密航してまでの渡日を目指す人も少なくなかった。
終戦時、朝鮮半島への帰還を希望する人に対しては、旅費・徴用慰労金・特別手当・15日分の食料・衣服・日用品までも支給している。
帰化した遺族の念い.
清本さんは相生で生まれ育った。在日として共存共栄を心掛け、韓国の通貨危機や五輪開催時なども出来る限り協力してきた。
清本さんは日韓関係の現状を憂い、「日韓関係を韓国側の都合で崩そうとしている。徴用工訴訟は起こされるべきではなかった。韓国側の努力で、何とか改善へ向かわせて欲しい」、と語る。
覆った判決.
ところで、ソウル中央地裁は今月7日、徴用工として動員されたと主張する韓国人や遺族85人が、日本企業16社に賠償を求めた訴訟で、「訴訟を通じて賠償請求する権利は、1965年の日韓請求権協定により制限されている」、として請求を却下する判決を言い渡した。
いわゆる徴用工訴訟で、2018年10月、韓国最高裁は日本企業側に賠償を命じていたが、今回、下級審が最高裁判例を否定する異例の判断を示した。原告側は控訴する意向。
徴用工を巡ってのソウル中央地裁の判決は、同地裁で4月、元慰安婦らの請求を却下する1審判決が出されたのに続く、日本寄りの司法判断となった。
氏が暗殺されなかったら、『朝鮮併合』は無かったかも知れない。
後先を考えず、唯、感情の赴くままに突っ走る民族なのか。
★上記へのリンク https://www.sankei.com/article/20210120-M7OYOSF7BJIG7EIAOGC65DSIIE/
★産経ニュース『韓国地裁、元徴用工の訴え却下 最高裁判例を否定 「提訴の権利」認めず』(2021/6/7)、
★上記へのリンク https://www.sankei.com/article/20210607-UCPGWDGRB5LBTDNJLEH6IAX4UI/
戦時中、朝鮮半島から“内地”に渡った男性が、勤務先の造船所(兵庫県)から貰った給料袋を、遺族が今も大切に保管している。
その給料袋には、半島出身労働者にもキチンと給料が支払われていた事が記されている。当時の半島出身労働者の待遇を物語る資料だ
父親が遺した給料袋を手にするのは、元在日2世で一昨年、日本に帰化した清本清一さん(76歳、兵庫県相生市在住)。
遺された給料袋は、戦時中、父が同市内にある播磨造船所に勤務していた際の、昭和17年1月から終戦後の20年10月までのもの。
その明細によると、『出勤工賃・歩増金・残業割増工賃・夜勤手当・精勤手当・物価手当・家族手当』などが支払われ、また、控除金として、『第一貯金・退職積立金・国民貯金・共済組合・健康保険・社宅・貸金・年金保険・所得税』などの記載もある。
手取り額は多い月で200円を超える。終戦を迎えた20年8月でも54円18銭の手取りがあり、更に同月、『徴用満期慰労金』も支払われていた。
相生市史によると、昭和初期の大きな農家の年収が624円89銭で、清水氏の20年8月の手取りを単純に12倍(年収換算)すると、ほぼ同額となる。
徴用工(応徴士).というもの.
清本さんの父親は朝鮮半島の出身で、自らの意思で昭和11年に来日し、17年に播磨造船所入りした。
当時、播磨造船所は活況を呈しており、重要産業の労働力確保を目的として、14年に制定された『国民徴用令』に基づく指定工場となり、全従業員が徴用に応じた『応徴士』、いわゆる徴用工となった。半島出身者だけが徴用工だった訳ではない。
また、国民徴用令が朝鮮半島に適用された19年8月以前については、清本さんの父も含め、基本的には自由意思に基づく就労だった。むしろ、密航してまでの渡日を目指す人も少なくなかった。
終戦時、朝鮮半島への帰還を希望する人に対しては、旅費・徴用慰労金・特別手当・15日分の食料・衣服・日用品までも支給している。
帰化した遺族の念い.
清本さんは相生で生まれ育った。在日として共存共栄を心掛け、韓国の通貨危機や五輪開催時なども出来る限り協力してきた。
清本さんは日韓関係の現状を憂い、「日韓関係を韓国側の都合で崩そうとしている。徴用工訴訟は起こされるべきではなかった。韓国側の努力で、何とか改善へ向かわせて欲しい」、と語る。
覆った判決.
ところで、ソウル中央地裁は今月7日、徴用工として動員されたと主張する韓国人や遺族85人が、日本企業16社に賠償を求めた訴訟で、「訴訟を通じて賠償請求する権利は、1965年の日韓請求権協定により制限されている」、として請求を却下する判決を言い渡した。
いわゆる徴用工訴訟で、2018年10月、韓国最高裁は日本企業側に賠償を命じていたが、今回、下級審が最高裁判例を否定する異例の判断を示した。原告側は控訴する意向。
徴用工を巡ってのソウル中央地裁の判決は、同地裁で4月、元慰安婦らの請求を却下する1審判決が出されたのに続く、日本寄りの司法判断となった。
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ハルビン駅で、朝鮮人の暴徒に暗殺された伊藤博文・初代首相は、朝鮮併合に異を唱えていたという。倒れた直後、犯人は朝鮮人だと聞いて口にしたのが、「バカめ」。氏が暗殺されなかったら、『朝鮮併合』は無かったかも知れない。
後先を考えず、唯、感情の赴くままに突っ走る民族なのか。
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★産経ニュース『徴用工だった父の給料袋が物語る現実 明細には手当の数々』(2021/1/20)、★上記へのリンク https://www.sankei.com/article/20210120-M7OYOSF7BJIG7EIAOGC65DSIIE/
と
★産経ニュース『韓国地裁、元徴用工の訴え却下 最高裁判例を否定 「提訴の権利」認めず』(2021/6/7)、
★上記へのリンク https://www.sankei.com/article/20210607-UCPGWDGRB5LBTDNJLEH6IAX4UI/
より.
2021-06-10 10:07
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