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【玄奘三蔵に師事した日本人僧】

 飛鳥時代、遣唐留学僧の中に道昭(629~700年)なる者がいた。
 中国の小説『西遊記』の主人公、三蔵法師のモデル・玄奘三蔵(げんじょうさんぞう) (602~664年)に学び、多くの経典を持ち帰って日本仏教の形成に貢献した。
 道昭は、各地で橋を架けたり、河川交通の整備、井戸の開発を手がけたり、と多くの社会事業をなした。
 それは伝道と社会事業の一体的な展開で、後に続く弟子の行基(668~749年)らの活動にも影響を与えた。

偶然の出会い.
 蘇我氏の氏寺として創建された最古の本格寺院・飛鳥寺(法興寺、奈良県明日香村)で修行していた道昭が、留学僧として唐に派遣されたのは、白雉(はくち) 4年(653年)だった。
 『日本書紀』によると、吉士長丹(きしのながに)を大使とした使節団(遣唐使)で、留学僧の中には道昭の他、大化の改新の立役者となった藤原鎌足の長男・定恵(じょうえ)もいた。
 国史『続日本紀(しょく・にほんぎ)』によると、道昭はたまたま玄奘三蔵と出会い、師事する事となった。玄奘は道昭を特に可愛がり、同じ宿坊に寝泊まりさせた。玄奘は、「かつて西域を旅した折、道中で飢えに苦しめられた。すると、一人の沙門(僧)が現れ、梨の実を私に与えてくれた。それを食べ、気力を回復した。お前(道昭)は、あの時、梨を与えてくれた沙門のように見える」、と言った。
 更に玄奘は道昭に、「お前は禅を学び、東土(日本)に広めると良い」と勧め、道昭は師匠の言い付けを守って禅定(座禅)に励んだ。

玄奘、インドへ.
 道昭が師事した玄奘は629年、唐が定めた鎖国の禁を破り、仏教研究のためインドに向けて出国。広大な砂漠や峻険な山岳地帯を踏破し、3年がかりでインドに到着、仏教教学の中心だった中部のナーランダー僧院で『唯識教学』などを学んだ。
 玄奘は645年、仏教の経典(657部)や仏像などを持って帰国した。旅の様子は『大唐西域記』にまとめられ、明代(14~17世紀)には、『西遊記』として小説化された。

最新の仏教を広める.
 道昭の帰国した時期は明確でないが、斉明7年(661年)説が有力である。そうであれば在唐は8年となる。
 『続日本紀』には、道昭が遣唐使に随って帰朝する時、別れ際に玄奘三蔵は、所持した舎利(釈迦の遺骨)や経論を道昭に授けて言った、「論語に、人間こそよく道を弘める事ができる、という言葉がある。今この言葉を私はお前に贈りたい」、と。

 道昭が活動した飛鳥寺を前身寺院とする、奈良・元興寺の辻村泰道・副住職は、「道昭の功績としては、新たな仏教の経典・経論などを我が国に伝えた事が大きい。その後の日本の仏教にも影響した。禅の教えも道昭によってもたらされ、日本で広がっていった」と話している。


道昭:どうしょう
 飛鳥時代を代表する僧で『続日本紀』での表記は道照。舒明元(629)年、河内国(大阪府南東部)丹比郡に、百済系の船恵釈(ふねのえさか) (尺)の子として生まれる。白雉4年(653年)、遣唐使に従い、学問僧として入唐(にっとう)。長安の玄奘三蔵に師事し多数の経論を授けられて帰国した。飛鳥の法興寺(飛鳥寺)に禅院を設けて禅を広め、経典を説くなどして日本仏教の発展に貢献した。その後社会事業にも尽くし、初めて「大僧都(だいそうず)」に任じられた。死後は遺言により火葬に付された。我が国最初の火葬といわれる。



★産経ニュース『【道昭 日本仏教を形作る】(1)「西遊記」の三蔵法師に師事 最新の仏教を広める』(2022/11/28)、より.
★上記へのリンク https://www.sankei.com/article/20221128-RT4Y5CH5ZZPXDMINRVG6N2JIOE/

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