SSブログ

【シベリアで、ポーランド孤児救出】

シベリアのポーランド人.
 「シベリアのポーランド孤児救出」。日本では殆ど知られていない近現代史の秘話は、ちょうど100年前の1918年(大正7年)の「シベリア出兵」時に起きた出来事である。
 当時のポーランドは帝政ロシアの支配下にあり、独立蜂起を謀ったポーランド人の政治犯などが、多数シベリア送りになっていた。また、第一次世界大戦で戦場となってしまった祖国ポーランドから、シベリアに逃れてきた人々も併せ、当時、シベリアのポーランド人は20万人程に膨れ上がっていた。
 1918年に第一次世界大戦が終結し、漸くポーランドは独立を回復した。
 しかし、シベリアにいたポーランド人は、ロシア内戦のために祖国への帰還が困難となり、生活は困窮を極めて餓死者などが続出した。
 同胞の窮状を救うべく、ウラジオストク在住のポーランド人が「ポーランド救済委員会」を立ち上げ、せめて子供達だけでも救い出し、祖国に帰してやりたいと活動を始めた。

日本、救出に動く.
 当時のシベリアには、精強な日本軍が出兵していた。そこで1920年6月、ポーランド救済委員会は、日本政府にシベリアにいるポーランド人の窮状を訴えた。
 訴えを受けた日本政府は、1920年7月5日、シベリアにいるポーランド孤児の救出を決定。直ちに日本陸軍が救出活動に動き出し、決定から僅か2週間後の1920年7月20日、救い出された56名の孤児とポーランド人の付き添い人5名を乗せ、陸軍の輸送船がウラジオストク港を出航した。

「日本を離れたくない」、と泣くポーランド孤児たち.
 3日後の7月23日、その輸送船は福井県・敦賀に入港した。孤児たちが上陸するや、日本赤十字社を始め、軍や警察、役場、更には一般の敦賀の市民までもが、孤児たちを温かく迎え入れた。
 病気に罹っている子供を治療し、お腹を空かしている孤児らに食事や菓子を与え、入浴させて新しい衣服に着替えさせてやるなど、皆が孤児らを慈愛の心で包み込んだ。
 その後、孤児たちは東京にある福田会育児院に移送・収容された。
 以後、翌1921年7月までに、合わせて375名の孤児が救出された。
 手厚く看護されて元気を取り戻した孤児たちは、横浜港からアメリカ経由で帰国の途についた。いよいよ出港となったその時、ハプニングが起きた。孤児たちが、「日本を離れたくない」と泣き出したのだ。
 極寒のシベリアで極貧の生活を強いられ、親を亡くし、愛情に触れることのなかった孤児たちにとって、誰もが親切な日本は天国だった。孤児たちにとって日本は“祖国”になっていたのだろう。
 孤児たちは「アリガトウ」を連発し、『君が代』を斉唱をし、幼い感謝の気持ちを表して別れを惜しんだという。

 しかし未だ、シベリアにはおよそ2,000名の孤児が救済を待っていた。
 そこで、日本赤十字社は「ポーランド救済委員会」の求めに応じ、経費負担と格闘し乍らも、急を要する孤児たち約400名の受け容れを決定、再び陸軍が救出に乗り出した。
 1922年8月、再び陸軍の輸送船が、孤児390名をウラジオストクから敦賀に輸送した。この第二陣の孤児たちも、前年同様、敦賀の人々に温かく迎えられ、のち、大阪・天王寺に建てられた大阪市立公民病院宿舎に収容された。大阪での歓迎ぶりもまた、東京でのそれに勝るとも劣らぬものであった。
 祖国へ帰る船が、神戸港から出航する際、孤児たち一人一人にバナナと記念の菓子が配られ、大勢の見送りの人たちも涙を流し、孤児たちの幸せを祈りながら、船が見えなくなるまで手を振っていたという。
 この出来事は“博愛の連鎖”を生んだ。日本に救出されたポーランド孤児たちの中には、第二次世界大戦中、迫害されたユダヤ人を命懸けで守った人もいたという。

脈々と続く、ポーランドとの交流.
 ポーランドは、この孤児救出を忘れてはいなかった。
 平成7年と8年、ポーランド政府は、阪神淡路大震災の被災児童らをポーランドに招待し、ワルシャワで4名のポーランド孤児との対面などを通じ、子供達を温かく励ましてくれた。
 その後もポーランド政府は、平成23年に発生した東日本大震災で被災した岩手県と宮城県の子供達を、2週間もポーランドに招いてくれた。
 更に、昨年平成29年、首都ワルシャワで開かれた第5回養護施設児童のためのサッカーワールドカップにも、かつてポーランド孤児を受け容れ、養護してくれた福田会の児童らを招くなど、100年前のポーランド孤児救出劇への感謝は、今も色褪せることはない。

 平成23年、ポーランド大使のヤドビガ・ロドヴィッチ・チェホフスカ大使が、広尾をジョギング中に『福田会』のプレートを発見し、「ひょっとして、ここは、かつてシベリアからポーランド孤児を助けてくれた福田会ですか」、と尋ねて来た。そこから再びポーランドとの交流が始まった。
 平成24年と27年、ポーランド大統領夫人アンナ・コモロフスカ氏が福田会に来園されるなど、かつてのポーランド孤児救出を源流とした日本とポーランドとの交流が復活した。

 駐日ポーランド共和国大使館・広報文化センター所長のマリア・ジュラフスカ一等書記官は、「このポーランド孤児救出の出来事は、実に感動的な話であり、今もポーランドでは語り継がれています。もっと日本人に知って貰いたいと思います。今でも、ポーランド政府は日本に感謝しています。日本では余り知られていない様ですが、歴史的に、ポーランドと日本は大変に密接な関係を続けてきたのです」、と語る。

 実は、ジュラフスカ一等書記官の言葉にあるように、日本とポーランドの絆は、このシベリアからの孤児救出の前から、正確に言えば日露戦争(1904年)の頃から始まっており、更に驚くべきことに、第二次世界大戦中も、日本とポーランドは繋がっていたのである。
 例えば日露戦争時、ロシアの支配下にあったポーランドにとって、謂わばロシアは敵であり、敵の敵は味方、つまり日本はポーランドの味方=友邦だった。
 一方日本は、ポーランドからロシアに関する情報を入手するなど、ポーランドの協力を得て、内側からロシアを弱体化させることも可能と考えた。互いの利害は一致していたのだ。
 第二次世界大戦でも、日本はドイツと同盟(日独伊三国同盟)を結んでいたにも拘わらず、ポーランドと日本は水面下で繋がっており、情報の分野で協力し合っていた。つまりポーランドと日本は、これまで一貫して友好であり続けてきたのである。

 知られざる、日本とポーランドの交流秘話。両国の絆は日露戦争にまで遡り、その後のシベリア出兵で、結果として765名のポーランド孤児を救出する事ができた。両国の感謝の応酬は今も続いている。
 今年2018年は、ポーランド孤児救出劇を生んだシベリア出兵から100年目に当たる。そして来年2019年は、日本とヨーロッパ一の親日国家・ポーランドとの国交樹立100周年を迎える。

* * *

 非難されがちだった「シベリア出兵」。その「シベリア出兵」が歴史の陰で、「シベリアのポーランド孤児救出」の美談。いやぁ、初めて知った感動の極みでした。


★産経ニュース『【正論5月号】シベリア出兵の美しき真実 ポーランド人を救った日本人』(ジャーナリスト・井上和彦氏)、(2018.4.28)、(月刊「正論5月号」からの転載記事)、より.
★上記へのリンク http://www.sankei.com/premium/news/180428/prm1804280002-n1.html

nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。