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【秀吉に疎んじられたキリシタン大名、黒田官兵衛】

キリシタン嫌いの秀吉.
 黒田官兵衛は『偉大なナンバー2』と称され、豊臣秀吉がその存在を恐れた、とされてきた。しかし、それは真っ赤な嘘。僅か約13万石の小大名の官兵衛が秀吉に敵う筈もなく、好い加減な史料に基づいた、後世の人々による過大評価に過ぎない。
 官兵衛が秀吉から疎んじられたのは、彼がキリシタンだったからなのだ。官兵衛がキリシタンだったことは、ルイス・フロイス著の『日本史』にも明記されている。
 官兵衛がキリシタンになったのは天正13年(1585年)、小西行長の勧誘による。洗礼名は『小寺シメオン官兵衛』。官兵衛は花押の代わりにローマ字印を使うこともあったので、キリシタンだったのは間違いなかろう。

 秀吉は天正15年(1587年)、バテレン追放令を発令し、これでキリスト教の信仰は事実上禁止された。
 なのにキリシタン・官兵衛は、諸大名にキリスト教を熱心に勧めた。それゆえ秀吉は、激しく官兵衛を叱責し、2人の関係に亀裂が入ってしまった。
 秀吉は、『九州征伐』で大活躍した官兵衛に対し、僅か豊前・中津しか与えなかった。その辺の事情はこれまで、「官兵衛を恐れた秀吉が、官兵衛を九州の僻地に押し込め、石高も最小限に抑えた」、とされてきた。
 だが実際は、キリシタンの官兵衛が、諸大名にキリスト教を熱心に勧めたのが気に入らなかったのだ。それでも、秀吉が官兵衛を起用し続けたのは、彼の能力が高かったからだろう。
 官兵衛は、主人・秀吉のその様な罵詈雑言や不当な仕打ちには黙していたが、秀吉に強い憎悪の念を抱いていた。キリスト教を迫害する秀吉に対する官兵衛の想いが、フロイトの『日本史』に次の様に綴られている。「拙者(官兵衛)は、この度の秀吉様からの罵倒をこの上なく憂慮している。 ・・・ だが、我らの主デウスは、かかる極悪人(秀吉)を罰さずにはおかれぬだろう。拙者が思うに、秀吉様は長くは生き得まい」、と。

『朝鮮出兵』でも衝突.
 こうして秀吉と官兵衛の間は、着かず離れずのままだった。しかし、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)によって決定的に破綻する。
 出兵当初、日本軍は朝鮮半島全土を占領する勢いだったが、やがて情勢は不利になった。苦境に追い込まれた日本軍は、新たに手を打たねばならなくなった。
 そこで秀吉が立てた作戦は、先ず官兵衛が全軍の指揮を執り、現地の武将を率いて全羅道を攻略し、その後12地点に城を築く、というものだった。
 しかし現地の武将たちは、先ず12の城を築き、その後、全羅道を攻略すべきであるとの見解が大勢を占めた。最初にしっかりした防御施設を作った方が安心できるからだ。これは、秀吉の命令と手順が全く逆だった。
 現地武将たちの意向を伝えるべく、官兵衛は秀吉の元を訪れた。これが、官兵衛に最悪の事態をもたらした。
 この頃、秀吉は度重なる敗戦に神経質になっており、反対意見は許さなかった。そのため秀吉は、現地武将たちの反対意見に激高し、官兵衛を引見しようとはせず、封禄と屋敷を没収してしまった。

『如水』誕生.
 元々、秀吉と官兵衛はキリスト教を巡って対立状態にあった。そのため、秀吉の怒りは激しく増幅し、官兵衛に厳しい処分を科した。これは『見懲(こ)り』といい、諸大名に対する見せしめの一つだ。
 関白・秀吉の怒りを買った官兵衛は、剃髪・出家し、権力・武勲・領地・および多年に亘って戦争で獲得した功績の全てを、水泡に帰するが如く去って行った。その後、自らを『如水』(水の如し)と称した。


★iRONNA(オピニオン・サイト)『渡邊大門の戦国ミステリー:「キリシタンへの見せしめ」 秀吉が黒田官兵衛を疎んじた理由』(歴史学者・渡邊大門氏)、(2018/10/07)、より.
★上記へのリンク https://ironna.jp/article/10891

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