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【幕末の日露交流秘話】

プチャーチン提督、条約締結のため来航.
 伊豆半島の付け根に戸田(へだ)という小さな漁村がある。毎年7月、一風変わったパレードが行われている。
 町を練り歩くのは19世紀のロシア軍人姿の一行で、去年は、プーチン大統領の側近でロシア国際問題委員長のコンスタンチン・コサチョフ氏がモスクワから駆け付けた。このパレードの主人公は、ロシア海軍提督のエフィーミー・ヴァシリエヴィッチ・プチャーチンであり、1854年に『日露和親条約』を結んだ人物である。プチャーチンは、軍艦ディアナ号で伊豆・下田に来航した。ディアナ号は長さ53メートル・排水量2000トン・数多の大砲を備え・乗組員500名ほどの巨大な船だった。

軍艦ディアナ号、大地震で破損 → 沈没.
 プチャーチン提督が、これから条約の本交渉を始めようとしていた1854年(安政元年)11月4日、安政東海地震(東海沖を震源とする、マグニチュード8・4の巨大地震)が発生、津波が下田港を襲った。被害は甚大で、犠牲者は数千人、家屋の被害は3万棟に及んだ。
 軍艦ディアナ号も損傷し、修理するための回航中、今度は嵐に遭い、大波に呑み込まれて沈没してしまった。その際、地元・富士の村人達は、必死にロシア人乗組員達の救助に当たった。
 後、ロシアから感謝の意を込め、地元(現・富士市(静岡県))に『友好の像』が送られた。また富士市では、ディアナ号の1/3の模型を展示し、当時の交流を今に伝えている。

日本初の洋式帆船、建造着手.
 ディアナ号を失ったプチャーチンは、代わりの船の建造を幕府に申し出、幕府はこれを許可した。こうして日露共同の西洋式帆船の建造が始まった。
 造船の地はロシア側の要求により、伊豆半島付け根にある戸田(ヘダ)村の入り江が選ばれた。その入り江は奥まった所にあり、外洋から発見される危険が少ない、というメリットがあった。
 当時ロシアは、英仏とクリミア戦争中だったので、プチャーチンは、英仏の艦船に発見される危険を避けるため、戸田の入り江を造船場所に選んだ。

 当時の日本には鎖国政策のため、西洋式帆船の造船技術がなかった。そこで地元の代官(江川家)はプロジェクト・チームを結成し、7人の船大工棟梁を集めた。棟梁の1人に上田寅吉がいた。彼はその技術を勝海舟に絶賛され、のち『日本・造船の父』と呼ばれる事となる。
 最初の課題は設計図だった。当時の日本では、棟梁の経験だけで船を造っており、設計図はなかった。またロシア側にも、造船の専門家はいなかったが、たまたま、沈没したディアナ号から持ち出した資料の中に小型帆船の設計図があり、それを参考にして技術将校のモジャイスキー大尉がヘダ号の設計図を描いた。
 洋式と和式の船の大きな違いは『竜骨』の有無である。竜骨は船の背骨にあたり、竜骨は、外洋航海に耐え得る強度をもたらす。
 ロシア人は日本の緻密な大工技術を賞賛した。例えば木を削る場合、西洋では斧を常用するが、日本では、糸ノコ・ノミ・カンナ等を使った緻密な技術を駆使する。そのため、部材と部材がピタリと繫がり、水漏れが防げる。
 日本側は西洋の技術に戸惑いながらも、ロシア側の指導を受けつつ200名ほどの職人が、昼夜を分かたず船の建造に没頭した。

遂に完成.
 プチャーチンが戸田村に到着してから93日目、遂にヘダ号が完成した。2本のマストの高さは21メートル、大砲は搭載せず、ロシアへ帰還するためだけの輸送用帆船である。3月10日、いよいよ進水式となった。
 初めて見る西洋の進水方式に日本人達は驚いた。それまでの日本の進水方式は、浜辺に建造した船を設置し、周囲の砂を掘り下げ、そこに海水を導き入れ、浮かび上がった船を海に引っ張り出すといった方式で、一日がかりの作業だった。
 ところが洋式では、海に迫り出して石を積み上げ、その上に海側レールを敷き、それに連結した陸側レールに船を乗せておき、海側レールを支えている石積みを崩すと、レールは海側に傾く。すると、連結している陸側レールに乗っていた船が自動的に海側レールに乗り移り、海上に滑り降りて海に浮かぶというもので、和式に比べて短時間で進水できる。現在行われている進水方式の原型であり、この意味からも、日本造船業の事始めと言える。
 1855年(安政年)3月22日、プチャーチンらを乗せた真新しいヘダ号は、ロシアへと出航していった。

プチャーチン提督と勘定奉行・川路聖謨の友情.
 ヘダ号建造のカギを握っていたのは、徳川幕府の勘定奉行で、プチャーチンとの交渉役であった川路聖謨(としあきら)の存在がある、と『ロシア科学アカデミー東洋学研究所』上級研究員のヴァシーリー・シェプキンは語る。
 プチャーチンは、安政東海地震でディアナ号が損傷したにも拘わらず、直ぐさま川路の元に見舞いに駆け付け、日本の被災者への支援(医師の派遣など)を申し出た。この申し出に川路は、プチャーチンに対して好感を持ち、これがヘダ号建造に繫がったのではなかろうか。
 このほか、交渉中の『日露和親条約』を有利に進めるため、洋式帆船の建造技術の習得のため等の思惑も、ヘダ号建造の陰にあったのではないか、と作家・白石仁章(まさあき)は見ている。

 1854年(安政元年)12月21日、『日露和親条約』締結。『ヘダ号建造』という共同作業の中での条約成立であった。
 条約には、「両国近隣の故を以て」という文言も書き込まれた。「隣国であるが故に、条約を整え、良好な関係を築く」旨が明記された。
 なお、プチャーチン家の家紋には、ロシアの武官と日本のサムライが並立して描かれている。プチャーチンと川路との、友情と敬愛の程が偲ばれる。

 ロシア人の指導によるヘダ号の建造に始まった日本の近代造船。その後、日本の高度な造船技術は世界を席巻した。
 160年以上も前、鎖国から開国へと時代が大きく変わろうとしていた時、人間と人間として向き合い、最先端の造船技術を学び、条約締結を成し遂げた人々がいた。ヘダ号の秘話は、21世紀の今に響き合うメッセージを伝え続けている。

●恥ずかしながら、『ヘダ号の秘話』を初めて知った。しかし感動した。
敬称略.


★NHK・BS1『ヘダ号の奇跡 日本とロシア 幕末交流秘話』(3/19放送)、より.

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