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【東京裁判・判決に反対した、オランダのレーリンク判事】

判決に異を唱える.
 東京裁判(極東国際軍事裁判)で、東条英機・元首相ら7被告のの死刑を含め、25被告全員(死亡や精神障害で免責された3名を除く)の有罪判決が下ってから、今秋で70年を迎える。
 この判決に対し、インドのパール判事と共に判決に反対した、オランダのベルト・レーリンク判事をご存知だろうか。
 氏は、戦勝国オランダの裁判官として東京裁判に加わったが、「事後法で断罪すべきではない」と確信する一方、有罪判決を急ぐ同僚や、本国オランダ政府との板挟みに苦しんだ。

 冒頭に挙げた全被告有罪の判決は、米・英・ソ連・中国などの「多数派」判事が執筆した。
 レーリンクはこの判決に反対し、「平和に対する罪」(侵略の罪)は事後法であり、「侵略戦争の共同謀議」により広田弘毅・元首相は死刑、との判決は不適切だとした。
 また、広田、重光葵、東郷茂徳ら3人の外相経験者、木戸幸一・元内相らの無罪を主張した。

 東京裁判といえば日本では、「全員無罪」を主張したインドのパールが持て囃されている。
 反植民地主義という、政治色の強いインドのパールに比べ、レーリンクは国家指導者の戦争責任を、当時の国際法でどこまで裁けるかに焦点を当てた。
 東京裁判では、レーリンク、パール、フランスのベルナールの3判事が、「多数派」判決に反対する意見書を提出し、米英主導の「勝者の裁き」の正当性を揺るがした。
 西洋の植民地大国オランダのレーリンクが、何故、他の戦勝国判事と対決し乍らも、反対意見を貫いたのだろうか。

パール判事との友情.
 東京裁判が開廷した1946年3月から半年も経たない内、レーリンクは「平和に対する罪」による断罪に反対を唱え、同僚判事との間で摩擦を起こした。
 レーリンクは、1928年の「パリ不戦条約」は未だ理念でしかなく、(大東亜戦争)開戦当時、実定法による犯罪ではなかった、と考えた。

 既に独自の判決文に取り組んでいた、パール判事の影響もあった。
 当時、レーリンクは日記に次の様に記していた。
 「私は多数派に沿って、絞首刑を宣告できないという結論に達した。もし、考えがこのまま変わらなければ、独自の意見を出そう、パール判事がやっている様に。彼とは意見を共有している。私はこの考えに興奮し、一晩を過ごした。」
 なお、パールは当時、「平和に対する罪」、「人道に対する罪」(民間人虐殺などの組織的犯罪)は何れも事後法だとして、全員無罪の判決文を用意していた。
 パールはレーリンクより20歳も年上だが、、2人は仲が良かった。
 1948年10月、判決の約1ヶ月前、独自の意見提出を決めたレーリンクに、パールは次の様に激励した。「あなたが決意したと知り、大変嬉しい。私は正義のために必要なことだと思ってきた。我々は信念を犠牲にはしない」。2人には強い友情が芽生えた。

日本への想い.
 レーリンクは、判事団の誰よりも広く日本を探訪し、戦争で荒廃した日本を理解しようと、ドイツ文学者の竹山道雄や仏教学者の鈴木大拙ら、日本の知識人達との交流を深めた。
 日本人との交流の背景には、かつての「敵国人」である自分を、温かく迎え入れてくれた日本人に対する驚きがあった。
 レーリンクは戦時中、オランダを占領していたナチス・ドイツを酷く憎んでおり、バイオリニストでもあったレーリンクを訪ねて来た、音楽好きのドイツ軍将校を追い返した程である。
 だからレーリンクは、敗戦間もない日本に行けば、「今度は自分が同じ目に遭う」と覚悟していた。ところが、実際は全く逆で、日本の何処へ行っても笑顔で迎えられた。
 1946年7月、富士山の山小屋で雑魚寝した時の日記に、「誰かが私を跨いでも気にならない。オランダでは警戒心から、道端で寝転がる事などなかったろうが、此処ではそんな気持ちなど無くなる」、とある。

 レーリンクが無罪を主張した東郷茂徳・元外相は、禁固20年の判決を受け、服役中の1956年に亡くなった。
 東郷氏の回想録が、氏の死後、ユダヤ系ドイツ人だったエディ夫人からレーリンクに贈られて来た。回想録の表紙の裏に、「レーリンク判事へ、永遠の感謝を込めて」、とエディ夫人の手書きの英文メッセージが添えられていた。そのメッセージを目にした途端、レーリンクは感動に震え、涙ぐんだという。
(敬称略)

* * *

 東京裁判に於けるインドのパール判事は存じていたが、オランダ人のレーリンク判事のことは初めて知った、感動。


★「正論」10月号『絞首刑は宣告できない・・・ 東京裁判々決に反対した判事レーリンクの日記・書簡』(産経新聞パリ支局長・三井美奈氏)、より.

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